龍口寺(りゅうこうじ)は神奈川県藤沢市片瀬の龍口刑場跡に建つ日蓮宗の本山。
日蓮上人 法難の地 日蓮宗 霊跡本山 寂光山 龍口寺この地はかつて刑場跡で、文永8年(1271年)9月12日に日蓮宗の開祖日蓮が処刑されそうになった。この事件を日蓮宗では龍ノ口法難と呼ぶ。 |
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龍口寺は、かつて刑場があった場所。 鎌倉幕府の反感を買った日蓮聖人が捕えられ連行された。 処刑直前、江の島の方から光の玉が飛んできて斬首役人の目をくらませたとか、処刑に使われた刀に光がかかり三つに折れたとも伝えられる。結局、処刑は中止になった。 龍の口刑場で処刑を免れた者は歴史上、日蓮聖人以外誰もいないとされている。 境内には連行された折に日蓮聖人が一晩を過ごした土牢が今も残る。 |
かつて日蓮上人が囚われていた牢 |
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日蓮聖人入滅ののちに、直弟子だった日法上人は、この霊蹟を保護する為に寂光山龍口寺と称し草庵を結んだ。 延元ニ年(1337)自ら刻んだ日蓮像を安置する寺を創建した。 のち六老僧(日朗、日昭、日興、日向、日頂、日持)らが協力して、延文二年(1357)に豪荘な伽藍の大寺を建立したのである。 <四大法難とは> 日蓮大聖人は一生のうち生命にかかわる法難を四回、小さな法難は無数に受けられました。 四大法難とは、40歳のとき伊豆伊東の俎岩に置き去りされた「伊豆法難」。 43歳のときに房州小松原で地頭東条影信の一軍に襲撃された「小松原法難」。 50歳のとき片瀬の龍口刑場で処刑されようとした事件。 このとき鎌倉一帯には不思議な現象が起り、処刑は中止されたことは有名です。これを「龍口法難」といいます。 同じその年、佐渡遠流の難にあい、配所の佐渡における生活は、寒さと飢えに悩まされる過酷なものでした。これを「佐渡法難」といいます。 大聖人が法華経を弘めることは命がけでした。 しかし、末法の世にこの法華経を弘める人には必ず大難や小難がくると書かれた法華経の経文の通りであると感激して耐えられ、法華経の行者としての自覚を深められたのです。 |
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■『伊豆法難』 弘長元年(1261年) 5月12日、40歳 | ||||||||
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船出の時、弟子の日朗上人は、「一緒に島流しにしてください」と叫んだのですが、聞き入れられず、力一杯櫂(かい)でたたかれ、右腕を折られてしまい、随行を願い出ましたが許されませんでした。
船が出て行くのを見送る弟子たちの耳に、「此経難持 若暫持者 我即歓喜 諸仏亦然 如是之人・・・」という日蓮聖人のお経を読む声がいつまでも聞こえていました。 日蓮聖人を乗せた船は、相模灘を横断し、夕陽が傾く中、伊東に程近い篠海浦の「まないた岩」の上に上人を置き去りにしました。 潮が満ちてくれば海に没する俎岩です。 死を待つばかりの日蓮聖人は静かにお題目を唱えておられましたが、そこへ不思議にも通りかかった船守弥三郎(ふなもりやさぶろう)という漁師の船に助けられました。 網置き場の岩屋にかくまって、その妻とともに食事を運び続けました。 ある日、地頭の伊東氏が病気になり、ご祈祷を依頼しにやってきました。 罪人の身である聖人に祈願を頼むくらいですから、相当重い病気だったのでしょうが、快復したお礼にと、海の中から出現した仏像を差し出しました。 この仏像は随身仏として、いつも日蓮聖人のそばにまつられることとなりました。 この地で日蓮聖人は一年七ヶ月を過ごされ、その間に立像釈牟尼仏(随身仏)を感得されたのです。 |
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■『小松原法難』 文永元年(1264年) 11月11日、43歳 |
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そして十一月十一日夕刻、小松原で日蓮上人の一行を数百人で待ち伏せし襲撃におよびました。 弟子の鏡忍房、天津領主で信者の工藤吉隆(法号妙隆日玉上人)は討ち死にし、日蓮聖人も額を斬られたうえ、左手を折られるという重傷を負わされました。斬りつけた東条景信は落馬し、難をのがれた聖人は、家のものに迷惑をかけないよう、家の近くの岩穴に身を隠され、通りがかりの老婆から贈られた綿帽子をかぶって寒さをしのがれました。 |
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■『龍口法難』 文永八年(1271年) 9月12日、50歳 |
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途中、鶴ヶ岡八幡宮にさしかかったとき、日蓮聖人は大声で「八幡大菩薩はまことの神か・・・」と、法華経の行者を守る役目を果たすよう叱りつけました。 源氏の氏神を叱りつけたのですから、役人はびっくりして、あわてて馬を引き立てました。 知らせを聞いた信者の四条金吾(しじょうきんご)さんは、一緒に死ぬ覚悟で駆けつけました。 深夜、いよいよ首を斬ろうと、役人が刀をかまえたとたん、江ノ島の方角から不思議な光の玉が飛んできて、(雷が落ちたという説も)役人は驚いて逃げ去り、処刑どころではありません。 「日蓮の首斬れません」という早馬が鎌倉に向かい、鎌倉からは「日蓮の首斬るな」との連絡が、小さな川で行き合い、その川は「行合川」(ゆきあいがわ)と呼ばれています。 その後、当初いわれた佐渡への流罪となりました。 |
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■『佐渡法難』 文永八年(1271年)10月28日 50歳 |
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文永9年(1272年)夏、一ノ谷(いちのさわにゅうどう)の家へ移住。ここで「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」を書かれました。さらに三ケ月後には、「本尊抄」に説いた法門を図様化した「十界互具の大曼荼羅」を顕わされました。後に信者の数が増え、佐渡の寺々は、「自分たちが食べられなくなるから、日蓮を何とかできないものか」と相談して、鎌倉へ訴え出ました。佐渡の守護職宣時(のぶとき)は「日蓮の信者は牢へ入れよ」と命令を下したものの、「立正安国論」の予言通り、内乱が起こり、蒙古の来襲が近づき、幕府はあわてて、弟子や信者を牢から出しました。信者は聖人の赦免運動を考えましたが「仏さまにまかせるよう」戒められ、ついにその時がきました。弟子の日朗上人は、はやる気持ちをおさえつつ、首にしっかりと赦免状を掛けて、佐渡へ迎えに行きました。二年五ケ月の佐渡の生活。島の人たちに別れを告げられた聖人は、文永11年(1274年)3月13日真浦(まうら)を出発して新潟の柏崎に到着、二十六日に鎌倉へ戻られました。 同年5月17日身延山に入られました。 |
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神奈川県でただ一つの「純木造」五重塔
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龍ノ口骨董市 毎月第3日曜日開催。 朝7時~午後3時 小雨決行 龍口寺で開催される骨董市には和骨董、古民具、西洋骨董、生活骨董、着物、古玩具などの骨董品が出品され大変ににぎわいをみせています。 掘り出し物いっぱい! |
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龍口寺へのアクセス 周辺の駅 湘南江の島 距離約0.2km,徒歩約2分 江ノ島 距離約0.2km,徒歩約3分 腰越 距離約0.5km,徒歩約6分 周辺のバス停 江ノ島海岸 距離約0.6km,徒歩約8分 目白山 距離約0.8km,徒歩約13分 片瀬山入口 距離約1.0km,徒歩約17分 |